一本目:ソーシャルネットワーク
めちゃくちゃヒューマンドラマ。
どうも、
僕です。
今日は今年の映画一本目ってことで
ソーシャルネットワークを見ました。
マークザッカーバーグがどのようにしてfacebookを作って軌道に乗せるまでの話。だと思っていたんですが、とても複雑なヒューマンドラマがそこにはありました。
話の流れとしては、訴訟を2つ抱えたザッカーバーグがそれぞれの訴訟相手との話し合いから過去を回想して、facebookがいかに成長したかが描かれています。
この映画を2回見ているんですけど、1回目とは大きく印象が変わりましたね。
初めて見たときはザッカーバーグがいかにfacebookを作ったかが面白かったんですが、2回目にみるときちんとしたヒューマンドラマでした。
起こされている訴訟の内容が大きな焦点となっていて、「facebookはパクリなのか」「共同創立者を裏切るつもりだったのか」の2つの視点で物語が進むのに見ている側はfacebookの起こりが理解できるように描かれていてとても素晴らしかったですね。
この映画では注意深く見るとザッカーバーグと原告たちの対比がしっかりと描かれていて、それに気づくとそれまでとは違った印象を受けると思います。
プライドが高くて自己評価も高いのに周囲からは過小評価というかなかなか評価されないザッカーバーグと、その反面評価を受けてクラブへ入会できるかもしれないエドゥアルド。
facebookを開始してそれを成長させようとひたすら走り続けるザッカーバーグと、ザッカーバーグにアイデアをパクられたと言って過去に囚われたままのハーバードコネクションの3人。
それぞれの対比がヒューマンドラマっぽいなと。
見たことある人はわかると思うんですけど、見終わったときにスッキリはしないんですよ。なぜかというと最後まで実際に誰が悪かったのかがわからないんですよね。映画としてはスッキリ白黒つけて終わりたいんですけど最後までグレーなんです。この辺が僕としては実際の出来事っぽくて好きですね。
スッキリしないポイントとしてもう一つあるなら、この映画はザッカーバーグの行動を主観的に追うことができないんですよ。自分語りが足りない。それこそザッカーバーグの心が覗けたのは最初のプログラミングのシーンのみでしたね。これもブログに実際に書いたことなんでしょうけど。
そこからはすべて客観的にザッカーバーグを見ることになる。見ている側がザッカーバーグの視点に立てない。これが視聴後の胸の引っ掛かりの原因なんだなと。
客観的に見たザッカーバーグはプライドが高くて素直になれないから嫌みを言ったり論点をずらして逃げてしまう。だから考えてることが分かりづらい。主人公ではない原告側の悲痛さだけが伝わってくるってのが、ある意味主人公の周りの色が濃いから主人公が無色に見えて近寄りがたい印象をもつ。孤独な天才マーク・ザッカーバーグ誕生だ。
正直この映画の最後のシーンが好きで、僕としてはこのシーンで主人公は初めて素直になって過去の自分との決別ができたんじゃないだろうかと感じる。
プライドの塊の彼が名声を得るために作ったfacebookを始めて本当の意味で使った胸に来るシーンですね。
まだ見てない方はぜひ。
10年前の映画なので安価でレンタルできるし、Netflixで見れるのでお見逃しなく。
では。